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「ん……」
刺すように瞼を抜ける光に耐え切れなくなって目を開いた。
飛び込んできたのはどこまでも澄み渡った青と瑞々しい緑。
鼻に入るは土や草花が匂わす自然の香り。
ごろりと寝返りを打とうとして何かに阻まれ、ようやく脳が覚醒する。
……木の幹?
「ここは……?」
「やっと起きよったか、この寝ボスケめが」
「んあ?」
頭上からの声に顔を上げると、がさりと音を立て木の上から影が降ってくる。
音も立てずに着地した彼女は、“いつもの”ようにチェシャ猫の笑みで俺を見る。
褐色の肌に艶やかな黒髪。
それを一つに纏め上げ、動くのに邪魔にならぬよう活動的な衣服に身を包んだ彼女は、俺にとってそこにいるのが当たり前すぎる程に見慣れた人だった。
「お主もサボるなら儂を連れて行かんか。
おかげで探すのに余計な手間がかかったじゃろうが」
「………………夜一?」
「……お主、まだ寝惚けておるのか?」
一転して心配そうにこちらを見てくる彼女に対し、俺の脳内は未だ混乱していた。
えっと俺はさっきまで……そう言う事なのか?
何が起こってもおかしくはないのだととりあえずは自らを納得させてから立ち上がる。
服についた草や土を落としながら辺りを見渡した。
見覚えのある丘だ。
丘の上には雄大に枝を広げた桜の木が一本だけ生えている。
そう言えば、仕事をサボる時は大体いつもこの場所だったなと懐かしく思い出す。
「ほれ、何をぼんやりしておる。
そろそろ抜け出したのがバレた頃じゃろうからさっさと戻るぞ」
そう言って彼女はさっさと歩き出してしまう。
慌ててそれに遅れぬよう、俺は彼女の背中を追いかけた。
道すがら彼女はぶちぶちと愚痴を零す。
やれ総隊長が五月蝿いだとか、やれ喜助がまた変な発明をしただとか。
なんでもない話、詰まらない愚痴のはずなのに酷く楽しそうに話すのだ。
それは彼女が今この時を、自由を謳歌していると言う証明に他ならない。
その力になれている事が嬉しかった。
「──故に儂はそう言ったんじゃが……陣もそうは思わぬか?」
「うん……? ああ、そうだな」
だけど俺の意識のメインはそこにはない。
俺は上の空のまま彼女の話に相槌を打ち、遥か先に見える街並みに目を奪われていた。
「……変わってない、な」
「ん? なんぞ言うたか?」
「いや、なんでもない」
ぽつり漏れ出た呟きに彼女が反応したが首を振って誤魔化す。
未だ混乱する事はしているが、ようやく脳が回転をし始めてきたらしい。
今俺が置かれている状況に対する考察が頭の中を駆け巡る。
恐らくここは闇の書の内部空間で、ここを創り出しているのは俺の記憶そのものなのだろう。
流石にこの景色や彼女を闇の書が創り出せるとは思えない。
あの魔導書の内部空間である証拠に、先程からこの日常に俺を溶け込ませようと若干の意識誘導が働いているのを感じた。
精神干渉か何かの術式だろう。
やれやれと溜息をついてから周囲を見渡す。
以前ならば見慣れた、ただの田舎風景に見えた事だろう。
なのに今は、世界が、輝いて見えた。
俺の失った世界は、こんなにも美しい場所だったのかと内心ごちる。
心安らかに、魂魄が次生までの時間を過ごす場所。
今の世界は平和そのもので、遠くでは人々が平和を謳歌しており、隣では彼女が笑っている。
これが……俺の欲しかったもの、なのか?
自問自答していた俺は、だから彼女が何度も俺を呼んでいた事に全く気付いていなかった。
「──おい、陣!」
「っ!? ああ、なんだ?」
「お主、今日は本当に変じゃな。話し方も常と異なる上、呆としておる。
本当に大丈夫なんじゃろうな?」
「ああ、俺は問題ない。……俺は」
微妙すぎる返答に彼女は変な陣じゃなと笑う。
それが幸せだったはずなのに、その笑顔がどうしてかあいつと被って見えた。
そこでようやく気付く。
……そうか……俺はもう…………
突然立ち止まった俺を、彼女は、夜一は訝しげに振り返る。
彼女が何か口を開く前に、俺は先んじて声を発した。
「なあ、夜一。お前にとって生きてると思えるのはどんな時だ?」
「うん? 変だ変だと思うておったが、本格的におかしいようじゃな。
桜の気にでも当てられおったか?」
そう言って笑う彼女に俺は真剣な眼差しを送る。
それを見て彼女は表情を切り替えた。
「ふむ。真面目な問いのようじゃな。生きてると思える時、か……」
とん、と軽い音を立て、彼女が俺の前に立つ。
その目に浮かぶのは優しすぎる輝き。
俺が、一番好きだった彼女のきらめき。
すぐに彼女は悪戯っぽく口元を歪めた。
「そうじゃな、やはりお主や喜助と様々な場所を飛び回っている時じゃろうか。
屋敷の中はいかん。あそこは人間を腐らせるでな」
「そうか」
「お主は?」
彼女らしい自由を求める言葉に納得していると逆に切り返される。
一瞬呆けてから、苦笑。
そう言えば彼女は昔から俺に対してはこう言う所があった。
俺が何かを質問すると、必ずと言っていい程似たような質問を返すのだ。
自分で出した問いながらに俺はしばし考え込み、考えをまとめきらずにそれでも口を開く。
「そう……だな。昔は役目が全てだった。
だからお前を護ると言う役割を与えられた時、俺は素直に従ったんだろう。
楽な生き方ばかりを選んで、惰性で生きていた気がするよ」
そうか、と彼女は平坦な相槌を打つ。
正直、あの頃の俺はいつ死んでもおかしくない、ただ人の言う事を聞くだけの人形だった。
それでも生きていられたのは、ひとえに両親から受け継いだ強い力のおかげだったのだろう。
本当に、両親には感謝してもしきれない。
「俺が変わったのはお前が生まれてからだ。
あの日、お前が護るのだと言われて夜一をこの手に抱いた日。
俺の腕の中で小さな、本当に小さな命が俺に笑いかけた日。
初めて、この子を護りたいと自分の意思で思った」
「……陣よ」
呼ばれ、顔を上げて彼女の目を見る。
いつものように自由気ままな雰囲気は消え、俺達を統べる長としての彼女がそこにいた。
「儂と出会う前のお主の事を、儂は知らぬ。
儂にとっての陣は、永きに渡り傍にいた儂の片腕であり……友である相良陣で、儂はこの先その認識を変える事はないじゃろう」
「そう、だろうな。だからお前には知っていてもらいたかった。
護挺十三隊隠密機動の長、俺のたった一人の主、四楓院夜一として。俺の友として。そして──」
愛した、女として。
その言葉をすんでの所で飲み込む。
ここから先は口に出してはいけなかった。
彼女と俺は、あくまで貴族の当主とその守護者なのだから。
だが、夜一は俺の末尾に消えた言葉を正確に読み取り、そして微笑む。
「行くんじゃな」
「ああ。
俺を待っててくれる人がいる。
俺を信じてくれる人が、いる。
それに応えなければ──」
「相良陣ではない、か。お主も中々難儀な男じゃのう。まあ、そう言う所が──」
今度は彼女の末尾が消えて。
だから、伝わったものもあると信じよう。
俺達はいつも背中合わせで、面と向かって伝え合う事など一度もできなかった。
背中には彼女がいて、俺と彼女は別々の方向を向かざるを得なくて、それでも心は共に在ると信じられた。
否、それ故共に在ると信じられた。
口に出せないからこそ、向き合う事ができないからこそ、尊い恋もあるんだ。
「背中合わせで、行くかの」
「ああ」
踵を返す。
とんと合わさった背中に、体温が伝わって。
以前と変わらぬ、いつも通りの温かさに涙が溢れそうになる。
でも、泣かない。
彼女の前では限界ギリギリまで格好つけていたかった。
「そうそう」
「うん?」
「答えを聞いとらんかったのう。お主にとって生きてると思えるのはどんな時じゃ?」
「……つらく悲しい過去も、重く苦しい現実も、全てひっくるめて人生だ。
人として生きるようになって、ようやくそれを理解した」
「……」
彼女はただ静かに俺の言葉を聞く。
ならば、例えこれが一時の夢だったとしても、俺の想いをここに遺していこう。
「お前と出会ってからは生きる事は戦いなんだと思っていた。
だけど違うんだよ、夜一。
生きる事だけなら誰にだってできる。
生きようとする事が、戦いなんだ」
「……」
「人と繋がる度俺の感情が揺れ動いて、揺れ動いた分だけ俺の世界は広がっていく。
広がった世界は、俺に喜びと悲しみを与えてくれる」
「……つらくは、ないかの?」
「つらいさ。だけど、喜びも悲しみも、全ては生きてこそのもの。
長く続いた悲しみも、いつかは終わるから生きていける」
すうっと深く息を吸う。
あの子の声が聞こえた気がした。
それが俺の中にある何かを振るわせる。
「少し、違うか。『繰り返される悲しみも、悪い夢も、きっと終わらせられる』
そう、自分で終わらせないと、いけないんだ」
「今のは……お主の言葉ではないな?」
「多分、な。今のはあいつがそう言った気がしただけだ。
夜一、俺はようやく気付いたんだ。
ここにいた時、俺はお前や喜助といる時しか生きてなかった。
……だけど、今は違う。俺は今、生きている」
そう、今を、必死に、生きているんだ。
「……それが、答えじゃな?」
「ああ、これが、答えだ」
右足を踏み出す。
一歩目は妙に重く感じたが、踏み出してからは酷く足が軽かった。
視線を飛ばすと桜の木はすぐ向こうにあって。
思っていた以上に先程の夜一がゆっくり歩んでいた事に気付く。
「陣!」
鋭い静止の声に立ち止まる。
だが振り向かない。
振り向く権利は、多分すでに失われてしまっているから。
尤も失われたのは今ではなく、一〇年以上前かもしれないが。
彼女は一瞬間を置いて、どこか搾り出すように最後を告げた。
「また……な」
「……ああ。また、いつか……どこでもない場所で、必ず」
それは紛れもない決別と再会の約束。
後ろ髪惹かれる思いを振り切り、歩みを再開する。
桜まで後数十m。
一分に満たないその短い時間、この時間だけは、俺自身の為に使おう。
──ばいばい、俺の初恋。
この恋は永遠なんだと思っていた。
でも違う。
永遠があるとしたら、それは自分の中だけで。
きっと自分の外には求めてはいけないのだろう。
頬を伝う熱いものに、俺は気付かないふりをする。
木の幹に俺の手が触れた。
ずっと気付く事がなかったが、右手の人差し指には確かに鈍く輝く相棒の姿がある。
そのまま足を踏み出して、桜の幹に額を押し付け深呼吸。
「……よう、俺の半身。あんまし遅えから……迎えに来たぜ」
そう、答えはいつだってスタート地点にあった。
俺とこいつは特別製。
そう言ったのは確か、自分自身ではなかったか。
≪……もう、よろしいのですか?≫
戸惑うように響く彼の声に苦笑する。
確認するまでもない事だと思うのはおれだけだろうか。
≪ここにいれば、貴方は──≫
「だけども、それはただの夢だ」
そう、夢なんだ。
ありえないはずの再会も、美しいままのこの世界も、全ては夢にすぎない。
夢ならば、終わらせないと。
終わらせないと、彼女や、ここで生きた過去の俺への侮辱となってしまうから。
それに、
「あっちには、俺を信じて頑張ってる奴がいる。
約束したんだ、必ず帰るって。
宣言したんだ、絶対に止めてやるって」
それこそが俺なのだと、難儀な所がいいのだと、彼女は肯定してくれたから。
だから、このまま、歩いていこう。
≪……行きましょう≫
そうして俺の半身は、その顔に優しい表情を湛えたまま顕現し、跪いた。
俺は無言で彼の肩に手を置くと、そっと微笑む。
「行こう」
≪ええ≫
「≪……ユニゾン・イン≫」